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厚木淳の「73光年の妖怪」ノート

ノート
厚木淳
一口にミステリあるいはスリラー・ライターといっても、まさかヴァン・ダインとイアン・レミングを同一の範疇の作家として考える人はいないだろう。本文庫では、そうした作風の違いを便宜的にマークによって分類しているが、SFの場合はどうだろうか?
SFの場合もいくつかの分類の方式がある。たとえば地球侵略テーマ、憑きものテーマ、未来戦争テーマ、といったテーマ別による分類がその一例だが、ミステリの場合の本格と変格(つまり謎の提示と解決の過程《プロセス》における本質的な相違)の区別に匹敵する二大分類をSFの場合にも試みる必要があるだろう。
1949年に創刊された現代アメリカの代表的なSF雑誌に「ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション」というのがあるが、その名前通りに、ファンタジーとSFに本質的な相違を見出すことができるのである。SF作家という大ざっぱな呼称に含められる作家郡の中で、一方の極にアーサー・クラークやハインラインを置き、他方の極に本書のフレドリック・ブラウンレイ・ブラッドベリ―を置いてみれば、この両者の創作態度の違いは明らかになる。つまり事実(現代科学)もしくは仮想された事実を尊重するか否かという点が、ボーダー・ラインとなるのである。同じ未来世界を描く場合でも、クラークのような純粋のSF作家は、二十世紀の科学や技術の進歩が将来、到達しうるであろうと思われる限度において、フィクションを構成している。したがって、そこには強い説得力とリアリズムがあり、未来への賛歌という形をとることが多い。ところがファンタジー作家は、現代科学の法則とか約束にとらわれずに(つまり無視して)突飛な空想を駆使して物語りを作る。したがって、そこにあるのは飛躍《傍点》の面白さであり、文明諷刺が先行する。フレドリック・ブラウンはこの飛躍《傍点》の大家で、彼のSFといわれる作品は、じつにすべてファンタジーなのである
(中略)
周知のようにアインシュタイン物理学においては、光速を越える物質は存在しえない、という命題がある。したがってSFでは宇宙船のスピードを無限に光速に近づけることはできても超光速の宇宙船というような便利な道具は絶対に使えないのである。また当然のことながら、人間の寿命の点からして、百光年以上の惑星へ地球人が行くという物語は、きわめて成立しにくくなる。こうした定理や法則や約束を尊重するのがSF作家であり、無視するのがファンタジー作家である。だから、ファンタジーの面白さとは、法則無視、つまり突飛な着想の大胆不敵さに帰することになる。そのためには手段を選ばぬから、超光速宇宙船はおろか、悪魔でも妖怪でも魔法のほうきでも呪文でもなんでもござれで、こうしたものはいずれもフレドリック・ブラウン御愛用の小道具である。
さて、サイエンス・フィクションとファンタジーの相違のことばかり述べてきたが、本書はブラウンのSF長編の第四作で、長編としては最も新らしい作品である。内容については、ここで繰り返し述べるまでもない。ファンタジーの面白さに徹した作品である。日本流に言えば忍術小説であり、知性体というとバタ臭いが、すなわち妖怪変化である。SFのバリエーションが、ついに日本の忍術小説の域にまで達した、と言う見方も、あながち見当違いでもあるまい。

要約すると

  • フレドリック・ブラウンはSFじゃなくて、ファンタジー
  • 「知性体」ってネーミングバタ臭いよね。妖怪って言った方がイケてるよ
  • 山田風太郎最高や!SFなんかの遥か先を行っとるで


何言ってんだお前

*1:1989年1月27日 33版(初版1963/10/27)